Recorder JP からのお勧め
リコーダーのサークルに入っていらっしゃるかた
独奏リコーダーもぜひどうぞ 〜リコーダーの歴史と個人的な回顧をまじえつつ〜
●バロックの花形独奏楽器としてのリコーダー●
きっと、あなたも悔しい思いをされたことがあると思うのです。リコーダーといえば、一般には「学校で使う教育用の安っぽい楽器」ぐらいに思っている人が多いのが、私たちのシャクの種のひとつですよね。しかし、言うまでもなく、リコーダーは、実はバロック時代に全盛を極めた花形独奏楽器でした。バッハ・ヘンデル・テレマンを始めとするバロックの大作曲家たちは、こぞってリコーダー(多くはアルトリコーダー)を自作における主役の楽器として取り上げました。
もうこれは、私の口癖のようなもので、いろいろな機会に、何度話し、何度書いたかわかりません。しかしやはり、これは一般にはあまりにも知られていなさすぎることなので、機会があるたびにどうしても口にしたくなり、繰り返しをいとわずに、私は言い続けています。
残念なことに、いくら言葉でこのように言い続けても、それだけでは多くの人たちのリコーダーに対する誤解や偏見は、なかなか払拭されないようです。ところが、私たちが2000年度から検証してきたところでは、ひとたび、チェンバロ伴奏のリコーダー独奏を耳にされたかたは、いっぺんでその認識を変えてくださるのです。「リコーダーがこんなに素晴らしいすてきな楽器だとは、初めて知りました」というご感想を、私は、演奏会をプロデュースして行うたびに、たくさん目にし、耳にしてきました。というより、聴いてくださったお客様たちは、ほとんど皆さんが、そのように感じてくださったのが、アンケート結果からわかるのです。
これはやはり、これが、「リコーダーの良さを生かす、最善の編成の一つ」だからでしょう。だからこそヘンデルをはじめとする大作曲家たちがリコーダーを扱うときに、最も好んで取り上げた編成でした。その結果、現代の私たちにとって、元気のあり余った小学生のチャンバラのごっこの小道具にされているのが、リコーダーという楽器のもっとも悲むべき姿であるとすれば、その反対に、チェンバロ伴奏によるリコーダー独奏・重奏に用いられているリコーダーは、この楽器の最大の晴れ姿(しかしそれが真の姿)であり、バロック時代の花形楽器としての本来の面目を最もわかりやすく現代人に教えてくれるものであるのは、間違いないと思います。
●なぜリコーダーは一度ほろんだのか●
ここで、よくご存知の歴史をおさらいするのをお許しください。リコーダーは、バロック時代の作曲家たちにあんなに愛されたのに、18世紀後半に急速にすたれていき、19世紀にはまったくかえりみられない楽器となってしまいました。そのことは皆さんご存知だと思います。
しかし、リコーダーは、こんなにすてきな楽器なのに、なぜ一度ほろんでしまったのでしょうか?
その理由として、よく「フルートにその地位を奪われた」ということが言われます。たしかに現象としてはそう言える面があったのでしょう。しかし、私は、そう言ったのでは、事態は極めて表面的にしか伝えられていないと考えているのです。
いったい、リコーダーがフルートに比べ好まれなくなったのはなぜだったのか。なぜ共存することすらできなかったのか。それを、私は次のように考えています。すなわち、「音楽演奏が商業的なものが中心になってしまったから、商業的音楽演奏に向かないリコーダーは、用いられなくなった」のです。
ヨーロッパでは、18世紀後半ごろから、急速に王侯貴族は没落していき、音楽家たちは宮廷の庇護を失って、一般の市民を「公開演奏会」の演奏会場に有料で集めて演奏会を開かなければならなくなっていきました。同時に、資本主義社会の発達により、市民階級が勃興しました。これら新興の市民階級は、お金はあるけれども貴族たちのような優雅な文化的伝統は身につけていませんでしたから、音楽を自分で演奏して楽しむことよりも、お金を払って聴いて楽しむ方を、むしろ好みました。
このような社会の大きな変化の中で、リコーダーはひっそりと取り残されていったのでしょう。新しい社会の、入場料を取る大きなホールでの「公開演奏会」を中心とする音楽演奏文化においては、リコーダーのような、音が小さくて、すぐそばにいる親しい人どうしにしか伝わらないような、微妙な表現にこそ味がある楽器は、活躍する場がなくなったのです。しかし身近な人たちのすぐそばで演奏する楽器だからそ、近くにいる親しい人には他のどんな楽器よりもよく伝わる、味わい深さがあったのです。
音楽が、「大声で、おおげさな表現で演説する」ような真似ができる楽器で演奏しなければならないものになってしまった。だから、作曲家たちは、こうした新しい音楽演奏文化には馴染まない、リコーダーという楽器のための曲を、誰も書かなくなりました。やがてリコーダーを演奏する人はいなくなり、当然にもリコーダーを作る人もいなくなってしまいました。
ご承知のとおり、すでに、18世紀後半に活躍したハイドンやモーツァルトはリコーダーの曲を書きませんでした。ベートーヴェンに至っては、おそらくリコーダーという楽器のことをほとんど知らなかったのではないでしょうか。
リコーダーは滅びました。その演奏法も製作方法も、誰も知らないものになってしまい、それどころか、その存在すらも知られないままに、古い楽器が博物館の倉庫や古道具屋の奥に、ひっそりとしまいこまれるだけとなりました。
●リコーダーの復興とリコーダーへの誤解●
しかし、やがてリコーダーは復活します。これも有名な話ですが、19世紀も末になったころ、イギリスの音楽家・アーノルド・ドルメッチという人が、古い楽器に興味を持ち、いろいろ調べたり試行錯誤したりしたあげくに、家族で、リコーダーをはじめとする古楽器を使っての音楽演奏を始めました。これがリコーダー復興のきっかけとされています。やがてドルメッチ一家は、リコーダーの製造も始めました。
1920年代になって、ドイツの音楽家で楽器職人でもあったペーター・ハルランという人が、イギリスにでかけて、ドルメッチ一家の演奏に触れる機会がありました。彼はドルメッチのリコーダーにおおいに興味を引かれたので、一本買って持って帰りました。そして、彼はこれに改造を加えて、いわゆる「ドイツ式」のリコーダーを発明しました。ドイツ式リコーダーは、ご承知のように、音程が悪いうえ、指使いも結局のところややこしくしただけの、総合的には改悪リコーダーだったのですが、よく使われる音階の音だけに限れば、指使いが少し単純に(つまりやさしく覚えやすく)なったわけです。そこで、初心者向きにはこの方がいいだろうと考えられ、戦前のドイツではこれがおおいにはやりました。そして、ナチスにも利用され、ヒトラーユーゲントという組織に入れられた少年少女たちの鼓笛隊が編成されて、ナチスの宣伝に利用されたという残念な一幕もありました。
やがて、戦後日本にもこのドイツ式リコーダーが学校教育で採用されるようになり、リコーダーと言えば「たて笛」、たて笛といえば「小学生がピーピー吹いているアレ」ということになってしまいました。リコーダー音楽の本当の姿は知られないままに、大量生産されたプラスチックのリコーダーが、安っぽい子供の教育用楽器として、日本の人たちのイメージに強烈に刷り込まれてしまったのです。
こうして、「ほとんどの人が知っているが、ほとんどの人に誤解されている」という、リコーダーという楽器の極めて特異な立場が形作られいったのでした。
●1970年代からのリコーダーブームによるリコーダー合奏の普及●
しかし、それでも、学校教育で取り上げられたためにだれもがみんなリコーダーを一度は手にすることとなりましたから、そのおかげで、リコーダーが持つ魅力を感じ取った、あなたのような人たちもたくさんいました。そういう人たちが中心となって、1970年代から80年代はじめごろにかけて、日本にリコーダーブームが起こりました。これには、フランス・ブリュッヘンというすばらしいリコーダー奏者が、名演奏家として世界的な名声を獲得したことも、おおいに影響していたことでしょう。各地に数多くのリコーダー合奏団が作られて活発に活動し、また、いくつもの音楽出版社・楽譜出版社から、おびただしい数のリコーダー用の楽譜が出版されました。リコーダー合奏団のためのコンクールも毎年大小さまざまなものが開かれ、さかんにリコーダー団体どうしが腕をきそい合いました。そのころからのリコーダーファンのかたも、皆さんの中にはきっといらっしゃることでしょう。
こうして、1970年代に始まったリコーダーブームによって、「リコーダー合奏」が、アマチュアの演奏文化として一定の広がりをみせ、定着しました。しかし、独奏楽器としてのリコーダーは、プロ奏者と、一部の熱心なアマチュア奏者だけのものにとどまりました。多くの人は「リコーダー合奏」を楽しんでいらっしゃるという形に落ち着いたのです。
そして、それは無理もないことです。独奏リコーダーの演奏に欠かせない「チェンバロ伴奏」が、ほとんどの人にとっては縁のない、あこがれの域を出ないものだったのですから。
そして、独奏リコーダーのためのレパートリーが、バロック時代までの作品にほぼ限られてしまうというのも、ひとつの問題だったでしょう。ロマン派の作品はまったくないうえ、現代作家の作品は主としてプロ用のもので、アマチュアが楽しみで演奏するには不向きなものが多いのです。いかにバロック作品がすばらしくても、これでは、独奏楽器としての魅力には、行き詰まりが来ます。実際、クラシックの交響楽団やピアニストの演奏会でも、もっとも人気があるのは18世紀末から19世紀ロマン派のレパートリーです。それなのに、リコーダーだけは、みごとに、この時期の作品がまったく欠けているのですから、オリジナルレパートリーの狭さは歴然としています。
しかし、オリジナルレパートリーの少なさの問題は、「リコーダー合奏団」にとっては、もっと深刻でした。そこで、リコーダー合奏団の演奏曲目としては、「クラシックの有名管弦楽曲などをリコーダー合奏・重奏にアレンジしたもの」や、さらには「映画音楽・ポップス音楽などをリコーダー合奏・重奏にアレンジしたもの」がよく取り上げられるようになりました。ウィリアム・バードの作品など、古い時代に書かれたリコーダーのためのオリジナル合奏曲も、もちろん、よく演奏されたのですが、どちらかといえば、「アレンジもの」がプログラムの中で大きな位置を占めているケースが多かったのは、否定できません。
やがて1980年代に入り、ブームはしだいに落ち着いてきました。それ以来、リコーダー人口はあまり増えていっているようには見えませんが、リコーダーの楽しさ、そして合奏・アンサンブルの楽しさは、もちろん、相変わらず根強いリコーダーファンをひきつけています。そうした皆さんの活動は、今も着実に続けられています。
●チェンバロ伴奏と現代レパートリーを皆さんの元に●
しかしこんなにたくさんの人がリコーダーを演奏していらっしゃるのに、そのわりには、独奏曲をアマチュアリコーダー奏者の皆さんが演奏されるのを、耳にすることがあまりないのです。そして、私は、バロック曲のチェンバロ伴奏をおさめたCDを、あるアマチュア奏者のかたからの依頼で作って、たいへん喜んでいただいたことがありましたから、「これはきっと、チェンバロ伴奏をともなって演奏することがアマチュア奏者の皆さんにとっては難しいことだからなのにちがいない。チェンバロ伴奏をたくさんの皆さんに届けたいなぁ、そのための活動をやりたいものだなぁ」と、リコーダー合奏団の演奏を聴くたびに感じていました。だって、ここにはバロック時代の本当にすてきなレパートリーがあるし、それがリコーダーのいちばんの晴れ姿だ、というのを、私はいつも感じていたからです。
そしてまた、リコーダー独奏曲は、現代ももっと書かれていいはずだ、と私は考えました。ことに、アマチュアのための曲、やさしい曲。さらに言えば、リコーダーを始めて間もない人でも苦労せずに演奏できるような曲でありながら、リコーダーが愛されていたころに大作曲家たちによって検証され確立された、リコーダー独奏曲の伝統(すなわちチェンバロなどの伴奏による独奏・重奏曲のスタイル)もきちんとふまえた、楽しいオリジナル曲があれば、リコーダーという楽器の魅力は、もっとたくさんのかたに知っていただけるのではないか。
そう考えた私は、何人もの協力者・賛同者の皆さんにも後押しされて、とうとう、このサイトのこころみにのめり込むことになったのです。
●独奏リコーダーの魅力●
私自身、リコーダーという楽器が小学生のときから好きではあったのですが、「そうか、リコーダーってそういう楽器だったのか」と思って強烈な魅力を感じたのは、高校生のとき、級友が、ソプラノリコーダーで、バロック曲らしい曲を誰もいない放課後の教室で一人で演奏しているのを耳にしたときでした。
そう、私は、「自分の楽しみのために一心にリコーダーでバロック曲をかなでている、級友の姿と、その音楽」に、強い感動をおぼえたのです。小学生の合奏とちがい、一人で演奏しているため、響きの濁りはないし、一つ一つの音の細かな表情が伝わってきます。今にして思えば、けっしてとくに上手な演奏というのではありませんでしたが、しかし、その澄んだ音色にピッタリとマッチした、格調高いバロック曲は、私に強い印象を残しました。そして、何よりも、リコーダーなどという手軽そうな楽器で、そんな素晴らしいレパートリーが、あんなに手軽に、どこででも演奏できるのだ、ということに、しびれるような魅力を感じたのです。
もっとも、だからといって私は、すぐさまリコーダー愛好家になったわけではなく、その後、合唱をやったりアマチュア管弦楽団で弦楽器を弾いたりしながら作曲の勉強のほうに進んだのですが、あの時いらい、私にとって、リコーダーは、「音楽が演奏したいな、演奏して楽しみたいな、というときに、いつでも待ってくれているすてきな楽器」として脳裏にきざまれたのです。そして、やがて40歳の声を聞くようになったころ、コンピューターを用いての音楽制作にうちこんでいた私の「生演奏への飢え」を癒してくれる楽器として、とうとう再び私の手にとられることになったのでした。
●リコーダーがなぜ独奏向きだと言えるか●
私は、リコーダーは、合奏に用いるのがけっして悪いわけではないけれども、独奏楽器として用いた場合に、その最高の魅力が発揮される、と思っています。それはなぜかということをお話ししましょう。
もちろん、ヴァイオリンのような弦楽器だって、本当に陶然となれるような美しい音色やキメ細かい表現が聴けるのは、独奏の場合です。一人の音楽家の内的な音楽性に基づく表現は、独奏のときにだけ裸身で出てくるのですから。その意味では、数人で演奏していても、ひとりひとり出す音がみんな違って一つのパートは一人で演奏する形、すなわち「重奏」を行っているのならば、それは独奏と同じように、楽器の魅力を完全に発揮します。私がここで「独奏」という言葉で代表させている音楽演奏形式には、重奏もほぼ含まれているのです。
が、これが「合奏」になると、それがヴァイオリンを始めとする弦楽器であれ、リコーダーのような管楽器であれ、音楽表現としてはどうしても大味なものになってきます。この意味では、話はなにもリコーダーに限ったことではないともいえます。
ただ、強弱があまり大きな幅で出ないリコーダーが大切な表現上の武器としているのは、タンギングによる微妙な音の表情と、息遣いのわずかな変化による、音色や音量のごく微妙な変化です。しかし、これが、他人数での合奏では、あまり生きてこなくなっていて、私はさびしく感じるのです。一人で演奏しているのをごく近くで聴いてもらってこそ伝わる、リコーダーの音の細やかな表情が、大勢が舞台に乗って行うリコーダー合奏の演奏会では、十分に伝わってこない・・・と私は感じてしまうのです。
そして、残念ながら、管弦楽団や吹奏楽団であれば、人数が多くなるほどに圧倒的な色彩感や音量の迫力が生まれますが、リコーダー合奏の場合は、人数が多くなっても、そういう点では大きな効果が出ないように思います。逆に、ブロックを通じて発音する楽器に固有の「微妙な音程の甘さ」が、響きの濁りとなって・・・独奏楽器・重奏楽器としてなら許容範囲であっても、合奏になると辛いな、と思うことが少なくなかったのです。
そういうわけで、私は、リコーダーは、本来独奏楽器向きだと思うのですが、いかがでしょうか。
●独奏リコーダーも楽しみましょうよ●
もちろん、私はリコーダー合奏の楽しさを否定しようというつもりはありません。ただ、リコーダーは「独奏楽器として本当に魅力的だ」と思いますし、独奏リコーダーのほうが、聴いていても、合奏よりもいちだんと楽しいと感じることを、隠すわけにはいきません。リコーダー合奏団の演奏会においても、ときには、独奏曲(二重奏曲など)がプログラムに加えられていることがあり、私はそういう曲が演奏される段になると、合奏曲にもまして、楽しく感じるのです。
これは、私の好みのせいもあるのかも知れません。しかし、少なくとも、こう申し上げるのはお許しいただけるでしょう。
「独奏リコーダーにも独奏リコーダーにしかない楽しさがありますよ。リコーダー合奏を楽しんでいらっしゃるみなさん、独奏リコーダーも楽しいですよ。それが、ようやく、手軽にやっていただける環境をご用意できたのですよ。やってごらんになりませんか」・・・と。
MIDIチェンバリスト・作曲家・リコーダー奏者 石田誠司
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