音楽についてのよもやま話
音楽雑記帳
6
音楽はライブに限る?
音楽はライブに限る、音楽は本来ライブである、という考え方があります。
私は、この考え方に、一面では賛成だし、他面では賛成できません。いろいろと思うところを書いてみます。
■リコーダー演奏の経験から■
いきなりですが、リコーダーなどという楽器は、目の前で演奏してくれるのと録音を聴くのとでは、ぜんぜん違う楽器だと私は思います。言ってみれば、ぜひとも目の前で演奏してくれているのを聴くべきで、そうであってこそこの楽しさ良さが聴いている人に伝わるのだ、と私は強く感じます。
その意味では、リコーダーJPで曲の試聴ファイルをたくさん公開していますが、これはやむを得ずのことで、本当はとても辛いものがあるのです。
もちろん、ブリュッヘンやペトリや山岡重治の演奏ならば、録音でもその良さはかなり味わえます。しかし、極端な話、私のごときアマチュア上級者とさえも言えない程度の奏者の演奏を録音で聴いていただくのは、本当に辛いと感じます。
ところが、私の演奏でも、目の前で聴いてくださったかたには、その楽しさはある程度伝わったと感じたことが何度もあります。とくに不出来だったときは別として、まあまぁ破綻なく演奏できたときは、たいていそうでした。
たった一人の人のために演奏していて、聴き手のかたが泣いてくださったことさえあります。
■ロランの演奏・保育園児の演奏に感動■
これは必ずしもリコーダーに限ったことではありませんし、いわんや私に限って起きることでないのは言うまでもありません。
たとえば、かつて、彫刻家岡本太郎氏が若いころ、ロマン=ロランを訪ね、高齢のロランが彼のためにベートーヴェンの「ハンマークラヴィーアソナタ」のアダージョを弾いてくれた経験を書いていました。その演奏は、ふつうに言う意味でじょうずな演奏ではけっしてなく、それどころか、ずいぶんつっかえつっかえの演奏だったにもかかわらず、岡本さんは、かつて聴いたどんな音楽よりも胸を打たれたようでした。
※ もっとも、「こんぺいとう芸術論」だとか「芸術は爆発だ」などの言葉からも知られるように、岡本氏は常に刺激的でインパクトが強いことに芸術的価値を大きく見出す芸術観のかたでしたから、ベートーヴェンや、このときのロランの演奏こそ最高の芸術だと考える論旨でもなかったように記憶していますが。
私自身が、今度は「聴き手」だったほうの経験で言うと、保育園の園児たちが合奏する「ハンガリー舞曲」に胸を打たれたことがあります。それはピアニカを中心とした合奏でした。普通に言う意味でじょうずな演奏ではなかったのはもちろんでしたが、園児たちのいっしょうけんめいな気持ちは十分に伝わってきて、感動的な音楽でした。
■超一流演奏家の演奏に失望■
逆に、かなり上質な音楽が演奏されているはずなのに、ほんとにつまらなく感じてしまうこともあります。
私の経験で言うと、カラヤン/ベルリンフィルによる「運命」「田園」の演奏会で、何だこの、やる気がみじんもないお座なりの演奏は・・・と心底がっかりした経験がありますし、ピアニストのワイセンベルクの演奏会で、あまりのつまらなさにばかばかしくなって、途中の休憩のときに帰ってしまったこともあります。どちらも安くない入場料を払って楽しみにしていた演奏会でした。カラヤンの演奏会に至っては、たしか抽選の葉書を送って、やっと手に入れた切符だったように記憶しています。それなのに・・・いや、多分、それだからこそ、私はがっかりしたのです。
そう、音楽の聴こえてきかたというものには、「誰が、どんな経緯で演奏しているのを、自分はどんな経緯で聴いているのか」ということが、ずいぶん大きく影響するのでしょう。変な話ですが、これはきっと、そうなのに違いないと私は考えています。
高い入場料を取る名人演奏家の演奏会ならば、それなりのものを私たちは期待する。デビューしたばかりの新人演奏家の演奏会なら、それ相応の暖かい期待を持って耳を傾ける。アマチュア音楽家が無料でやっている演奏会ならば、よほど下手でなく、いっしょうけんめい演奏しているのが伝われば、ほのぼのと楽しくなる。ちっちゃな子供たちが演奏しているのなら、はらはらしながら見守って、何か音楽的表現らしきものが耳に達したらそれだけで胸が熱くなる。
そういう面が、音楽には、たしかにあるのです。
■録音された音楽の価値■
こういう次元においては、「音楽はライブこそ楽しい」という面が、たしかにあります。
しかし、ならば、録音された演奏には音楽の楽しさがないのか、あるいは、決定的に何かが欠けたものとなるのか、といえば、私は「そんなことはない」と考えています。現に、リコーダーの曲だって、大家のすぐれた演奏を収録したCDは、十分にすばらしい音楽を伝えてくれます。
※ ただし、リコーダーの場合は「十分に」ではあっても「完全に」ではない、と私は思っています。この点については最後に述べます。
その他、「名盤」といわれるたくさんの音源が、私たちにとって、どんなに貴重な音楽的財産となっているか、はかり知れないものがあります。グレン・グールドに至っては、録音以外で聴いた人はわずかしかいないわけですし、グールド自身、録音こそ演奏家としての自分の音楽の価値を理解してもらうための最良の手段だと考えていたわけです。
こんにち、プロ音楽家の誰かが「録音された音楽の価値」を否定しているとすれば、それは、よほど特殊な音楽観の表明であるか、または、あえて言えば「よほど甘えた思考の演奏家の言いぐさ」だと私は考えます。
■売った録音でも伝わるほどの卓越した音楽性■
録音された音楽を買ってきて聞く、という行為においては、奏者の姿も見えず、また、聴き手と奏者との人間関係も何もありません。あるのはただ、物体としてのCDなりテープなりというものと、聴き手との関係にすぎません。そこにおいては、機械から鳴り響いてくる音楽は、純粋に、お金の対価としてそこで鳴っている音としての音楽であって、それ以外の何物でもない抽象物です。
また、高い入場料を取る演奏会でも、事情はとても近いものになります。聴衆は音楽演奏というサービスを買ったわけですから、鳴り響く音楽そのものが高い商品価値を持たなければなりません。
こういう場合は、音たちそのものが、純粋に、表現として「お金に見合うだけの魅力をもって」聴き手の心をつかむ必要があり、いわば何のごまかしも利かないのです。
お金を取って演奏する(とくにCDを販売する)のならば、奏者は、その事態に耐える必要があります。MIDIピアニストとしての私は、そういう覚悟で演奏を発表しています。
だから、こんにち、ピアノや管弦楽などの演奏において高いお金を取るのであれば、それは、そのまま録音されても十分にその録音に商品価値が生じるような演奏でなければならないのです。現に、多くの一流音楽家たちはそう考えて、ライブ録音をそのままCDにしてしまうことがよく行われます。
※ 製作費の節約その他のいろいろな事情が絡んでいることを、私とて知らないわけではありませんが。
それでこそプロだし、その演奏にお金を払う価値もあるのです。
■リコーダーの場合■
さて、では私が最初に書いた「リコーダーはすぐそばで聴いてもらってこそ云々」という話は、すこしおかしかったのでしょうか。特殊にリコーダーの場合はすぐそばで生で聴いてもらうのがいいのだ、というのは、何故なのでしょうか。
それは多分、今日の「音楽鑑賞」という文化が歴史的に形成されたものだという事情から来ています。
ひとくちで言えば、いまの多くの人の音楽鑑賞態度というのは、かつてリコーダーがその中に身を置いていた「身近なところで仲間が演奏するのを聴く」というのとは、ずいぶん違うものです。それは、「公開演奏会と、その変形としてのレコード(CD)鑑賞」という行為を中心としてつくられてきた文化なのです。
ところが、この文化はリコーダーとは合わず、リコーダーという楽器が滅んでしまって休眠していた19〜20世紀の間に形成されたものなのです。リコーダー演奏との相性が悪くても当然でしょう。
具体的には、リコーダー、ことにアルトリコーダーは遠鳴りする楽器ではないし、その親しみやすい音色の魅力も、近くで聴いているときにしか十全に伝わらないように思います。また、即興的装飾などの要素にしても、奏者と聴き手との暖かいコミュニケーションを背景として、はじめてほんとうに生きてくるもののように私は感じるのです。
このへんは、もっと敷衍して説明できないと、あまり説得力がないかも知れませんが、とにかく、「リコーダー音楽の文化は、録音や有料公開演奏会には馴染まない性格が強い」ということは、いろいろな面から言えるだろう、と私は考えます。
まして、私たちアマチュアがリコーダー演奏を人様に聴いていただくなら、「ぜひとも無料でやるべきだ」というのが私の持論です。アマチュアは、自分の演奏を聴いてもらうのにお金なんか取ってはいけません。
何よりも、それが「身のため」なのです。お金さえ取らなければ、楽しかった、また来よう、と言ってくださったはずのかたが、安くともお金を払ったとなると、「そう再々は勘弁してくれよ」となってしまうものなのです。
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リコーダーJPディレクター 石田誠司
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