音楽についてのよもやま話
音楽雑記帳
4
演奏という行為について
今回は少し硬派に、演奏という行為をめぐる、いろんな角度からの覚書です。
■演奏こそが音楽の根幹■
音楽演奏は音楽そのものである。演奏者こそが音楽といういとなみの中心にいるのだ。
たとえばよく、「作曲者・演奏者・聴き手の3者がいて音楽が成立する」みたいに言われることがある。だが、あれは嘘だ。いや、完全な嘘ではないのだが、作曲者も聴き手も、演奏者が兼ねることができるではないか。この意味では、作曲者だの聴き手だのは、必ずしも必要ではない。たとえばリコーダー奏者が即興で気持ちのおもむくままに音を奏で、それを自分だけが聴いていたって、音楽はそこに存在する。ここにおいては、特殊な「作曲者」なるものも「聴き手」なるものも、何の役割も果していない。だが演奏者だけは、これが存在しないことには音楽が音楽であり得ないのである。
そういう意味で、演奏という行為が音楽というものの根幹であるのは争う余地がない。つまり、演奏者というのはいちばん偉いのですよ、アマチュアリコーダー奏者の皆さん(笑)
■作曲者と演奏者との関係■
さて、しかしクラシック系の音楽では、作曲者というのがけっこう偉いことになっている。たとえば、演奏者の課題として、よく「作曲者の意図をくむ」ことが問題になる。むろん、あるすぐれた作曲家のすぐれた作品を演奏する場合、その作家と作品への尊敬の念が演奏家にとって強いものであればあるほど、「何とか作曲家の意図を汲んで、作曲者が抱いていたイメージを再現したい」という気持ちが演奏者にわき起こるのは、自然なことである。
だが、実のところ、これはつきつめるとあまり意味のある姿勢ではないと私は考えている。われわれは、「よい音楽が鳴り響くほうが楽しい」から、「少しでもよい音楽を鳴り響かせよう」と努力する「音楽演奏者」なのであって、「作曲者の意図を正しく音にすることをめざす解答者=正解をめざす人」ではない。むしろ作曲者が提供してくれた「台本」である楽譜を契機として、作曲者が思いもよらなかったような美しさまで引き出してくるのが音楽演奏の醍醐味である。
したがって、場合によっては作曲者の「意図(指示)」にそむいてでも「より美しい音楽が鳴ること」をめざすのが、音楽演奏者としては正しい姿勢なのだ。クラシック音楽の演奏家が、ときに作曲家の指定を無視する(たとえば強弱の指定やアーティキュレーションの指定、速度の指定などを守らない)ことがあるのは、彼らがそう考えているからに他ならない。
だが、「自分の使命は作曲者の意図を音に実現することだ」と考えている演奏家もまた、少なくないように思う。たしかに偉大な作曲家やその作品を前にすると、そういう気持ちになるのもよくわかる(私もモーツァルトに対してよくそう思う)のだが、ここには、演奏者たちがつい持ってしまう、作曲家への一種の「買かぶり」がひそんでいるのではないかと私は考えている。
それというのも、すぐれた演奏者というのは、作曲家が書いた音符に対して、瞬時にして適切な解釈を行って(つまり書いてないことまで補って読みとって)美しい音にして鳴らす、という貴重な能力がある人なので、自分の仕事と作曲家の仕事との境界があいまいなのである。そのため、実は自分が上手に弾いたからよい音楽が鳴っただけなのに、「あぁこんなによい音楽を考え出せるなんて、あなたはすごい人だ」と作曲家に対して思ってしまう、という、お人よしな一面があるのではないか。
言いかえれば、作曲家というのは、すぐれた演奏家に匹敵するほど一つ一つの音に対して詳細精緻なイメージを持って音符を書くわけではない、と私は思っているのである。これは自分の経験から言っているので、「そんなのはお前のようなへっぽこ作曲家だけだ」と言われてしまうかも知れないし、ある程度はそうなのだろうとも思うけれども、それでも私は、程度の差は(かなり)あるにせよ、どんな大作曲家でも、すぐれた演奏家ほど精密に音をイメージして音符を書いているわけでない(つまり本質的には私と同じだ)と信じている(証拠はないが)。
これを逆に言えば、作曲家がイメージしていた程度のことすら音にできないような演奏家は、演奏家の名に値しない。演奏家ならば、自作を聴く作曲家をして「俺が思っていたよりもずっといい音楽だ!」と言わしめて当然である。そして、実のところ、これはそんなに難しいことではないような気がする。まだ実際に聴いたことがなかった自作曲、せいぜい自分が手元にある手段(たとえばピアノや電子楽器)で「鳴らしてみた」ことがあるにすぎない曲を、曲がりなりにも楽器演奏にある程度以上習熟した演奏者が心こめて「演奏した」のを聴かされたならば・・・それはほとんど必ず「作曲者が描いていたイメージ」を、たくさんの部分で超えているものになっているのではないかと私は思う。
まとめよう。作曲者の頭の中にあったイメージを「正解」と考えて、それにどれだけ近い答案を書くかが演奏家の課題であるかのように考えるのは正しくない。むしろ、作曲家の頭の中にあった音が「正解」だとはまったく限らないのであり、それどころか、ほとんどの場合、作曲者の頭の中にあったのは、「目次やプラン(これが楽譜として書かれる)は、すばらしいアイディアを含むものとしてでき上がっているが、それ以上の細部は極めてぼんやりとした不完全極まる形にしかなっていない答案」とでも言うべきものだったに違いないのである。演奏者は、むしろ、作曲家という台本作家が書いた台本をもとに、演出を考え演技を組み立てて実際の舞台を作り上げる演出家や役者にたとえ得るような、極めて創造性の大きな役割を果すものなのだ。
■クラシック曲の「演奏様式」■
以上のような私の立場をもう少し進めると、たとえばバロック時代の作品を演奏するときに、「作曲者はどういうつもりで書いたか」とか、まして「同時代にどのように演奏されていたか」などということは、つきつめれば「そんなことはどうでもよろしい」ということになる。
だが、こう言うと「クラシック音楽の伝統を尊重しない横紙破り」みたいに受け取られてしまう恐れがあるので、もう少し補足しなければならない。
ある音楽作品(紙に印刷された楽譜として存在する)を、どのように音にしていくかというときに、「作曲された当時はどのように演奏されていたのだろう?」と考えることに、意味がないわけではないのはもちろんである。音楽演奏の歴史というのは、いろんな偏りやひずみを持っているので、そうしたひずみを矯正して、はじめてその作品の真価が目に見えてくるということもあり得る。
たとえばヘンデルのリコーダーソナタ。これを、1960年代ごろまでは、リコーダーで演奏する人など滅多におらず、当たり前のようにモダンフルートで演奏されていたし、場合によってはピアノで伴奏されることもあった。モダンフルートとピアノという組み合わせで、公開演奏会で演奏する、となれば、大きなダイナミクス幅を取った劇的な表現に傾きがちになる。また、バロック時代の演奏様式の研究もあまり進んでいなかったから、わりと楽譜通りにあっさりと演奏されていた。
しかし、古い音楽に対する研究が進んできて、すぐれたリコーダー奏者をはじめとする古楽奏者たちが登場し、ヘンデルのリコーダーソナタにはまったく違う照明が当てられるようになった。復元されたバロック時代のチェンバロの繊細な響き、そしてリコーダーの細やかな味わいのある控えめなダイナミクス表現、それとともに自由奔放な装飾・変装を加えながら演奏することによる即興精神の躍動。これらの特長をそなえた新しいヘンデル演奏は、現代人にとって本当に新鮮な魅力にあふれていた。「なるほど、こんなに楽しい音楽だったのか!」
このように、「作曲された当時の演奏スタイル・演奏様式の研究」が、すてきな成果をもたらしてくれることは多い。
だが、それも十分承知の上で、あえて私は強調したい。「音楽演奏は、究極的にはあらゆる制約をまぬかれた自由なものであってよい」と。むろん、行われたその演奏に、音楽的な魅力があるのならば、という意味である。美しいこと、楽しいこと。それが音楽における唯一の「価値」なので、伝統的スタイルに背いたことが、音楽の美しさ楽しさをそこなうだけに終わっているのなら、そんな「造反」には価値がない。だが他方、伝統的スタイルを採用することにも、それ自身には何らの価値も意味もないのであって、極端な話、「楽しくはないけど正しい演奏だ」なんて、そんなバカなものがあるはずはないのだ。
■学びつつ、しかし自分の音楽性に忠実に■
私の考えでは、ヘンデルのリコーダーソナタにせよ、バッハのフルートソナタにせよ、実に多様な演出の可能性(演奏可能性)を持つ柔軟性の高い「台本」なのであって、現代人が現代的センスで受け止めて音にしていくことで、いくらでも新しい楽しさ、新しい魅力が生まれるような、豊富な内容を持っている。
むろん、「当時のスタイル」の研究や、それにもとづいて実現された演奏からいろいろなものを学び吸収するのは有益なことだ。演奏スタイルには、それぞれ「そうやった方が美しいし楽しい」と感じられるような「もっともな内容」が多いのも確かなのである。さらに、様式感というものが、その音楽作品の魅力の根幹と深いつながりがある場合だってある。だから、様式の研究には意味がある(どころか、たいへん大切なことである)し、その成果にはいつも学ぶべきだ。
だが、それでもなお、音楽演奏は、あらゆる可能性を持つものであることを忘れてはならない。つきつめれば、ヘンデルのリコーダーソナタ(の楽譜)だって、音楽演奏という万人に対して開かれた楽しみにおける、ひとつの契機、素材としての台本にしか過ぎない。その台本に対して、どのような新しい演出をこころみ、どのように演じるかは、現代の演出家であり役者でもある「演奏者」にゆだねられた常に新しいテーマなのである。
以上を総じて、けっきょくのところ大切なのは、いつも先人がなしとげた成果に学びながら、「どうやるのが楽しいか、美しいか」を自分の耳で検証しつづけることであり、それを通じて、自分の音楽性を磨きつつ、自分の音楽性に忠実な演奏をめざして努力することだ。これが音楽演奏という行為におけるもっとも真摯な態度であろう。逆に言えば、自分がいいと感じるからそう演奏しているのではなくて、「こうやりなさいって習ったからこう演奏してる」だなんていうことがもしあったとしたら、それは音楽演奏という行為の本質からは、そうとう遠くかけ離れた態度なのではないかと私は思うのである。
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リコーダーJPディレクター 石田誠司
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