■リピートの記号■
楽譜に「繰り返し記号」てのがありますね。小節線を二重にして、たてに二つテンテンが書いてあるやつ。ごらんいただきましょうか。
これです。
これが曲の途中で出てくると、スゴロクの「振り出しに戻る」みたいなもので、最初にもどって、もう一度、同じことを演奏するわけです。これが書いてあるかどうかで、演奏者の手間は倍違うのに、作曲者は楽でいいですよね、こんなこと書くだけで、音楽の長さが倍になるんだから・・・。
というのはもちろん冗談ですが、しかし、考えてみたら、「同じことを二度やるだなんて、退屈じゃないか」という見方もありそうです。
■同じ事を二度やる?■
たとえば、お芝居やオペラで、「第一幕」が終ったところで、もう一回第一幕を見せられてからやっと第二幕に行ってくれる、なんてことになったら、嬉しいと思う人は少ないのじゃないでしょうか。
でも、ご承知の通り、それが器楽曲ではむしろ普通のことなのです。「タタタ・ターー」と始まるベートーヴェンの「運命」交響曲にも、モーツァルトの甘美な名曲「アイネクライネナハトムジーク」にも、みんな、この「リピート」の記号がふんだんに書いてあります。ヘンデルやテレマンのリコーダーソナタなんて、多くの楽章は、前半をまず繰り返したあと、後半もまた繰り返しをするようになっていますから、これをやるかやらないかで、音楽の長さが完全に2倍違ってしまうのです。
■リピートの取り扱い■
SPレコードやLPレコードが出回り始めたころ、クラシック音楽の演奏家たちは、録音のさいには「リピート」をよく省きました。ただでさえクラシック曲は長いのに、それをリピートまでやっていたのでは、ひとつの楽章だけでSP盤を何枚も取り替えて聴かなければなりません。LPの時代になっても、たとえばベートーヴェンの「英雄」交響曲の第一楽章でリピートを行う演奏は、まれでした。そんなことをやると、LPの片面に第一楽章と第二楽章をおさめることができず、けっきょく、1枚のLPにこの交響曲がおさまらなくなってしまうのです。
この点、CDというのは録音時間も長いし途中で裏返さなくてもいいので、最近は、演奏家たちは長い曲でもリピートを遠慮なく行うケースが増えています。
演奏会でも、リピートを行うかどうかは、そのときのプログラムの都合で自由に選択されてよいものだと考えられている面がありそうです。
■リピートの積極的な魅力■
20世紀を代表する名指揮者の一人、サー・ゲオルグ・ショルティは、「リピートがあると、1回目にやったときに失敗したり間違ったりしても、挽回するチャンスがあっていいのさ」なんて、本気か冗談かわからないようなことを言ってたそうですが、まぁ演奏する立場とすれば、そういう要素もなきにしもあらずです。しかし、バロック時代のリコーダーソナタのような音楽では、リピートには、とても積極的な意味がありました。
どういうことかといいますと、ご存知のかたも多いと思いますが、「1度目はだいたい楽譜通りに演奏するが、2度目になったら、いろいろ自分流に装飾を加えたり変奏を加えたりして、楽しく遊びながら演奏する」という伝統があったのです。フルートの曲もヴァイオリンの曲も、独奏曲はみんなそうでした。しかし、これは、特にバロック曲を演奏するリコーダー奏者にとっては、他の楽器の場合以上に大事なことです。
というのは、リコーダーという楽器の特性から来ています。リコーダーは、もちろん感情をこめて美しく歌うこともできますけれども、どちらかと言えば、軽快な動き、軽やかな身のこなしに持ち味があります。同じバロック時代の「笛」である、昔のフルート(フラウト・トラヴェルソ)が、音の立ち上がりが鈍くて鳴りにくく、軽やかな動きよりも一つ一つの音の中で劇的に歌っていくことのほうが得意だったのと、ほぼ対照的な事情がここにはあります。
■ヘンデルのソナタの快演・ミカラ=ペトリ■
論より証拠、まぁひとつ、話のネタに、当サイトでもご紹介しているミカラ・ペトリという天才リコーダー奏者のCDを何か聴いてごらんになってください。彼女のCDは数多くて、私も全部を聴いたわけではありませんが、聴いた限りでのイチオシは、ジャズピアニスト・キース=ジャレットの弾くチェンバロと共演したヘンデルのソナタ集です。これは絶対に買って後悔しない、爽快極まる快演。
聴きどころは、音楽が一区切りまで来て、リピートとなったときです。さぁ、ペトリが、その唖然とするしかないテクニックを駆使して、どんなにかっこよく音楽を縁取って行くことか! そしてペトリの演奏に対して一歩も引かず、これまたすばらしい自発性の権化となって相棒をつとめるキースのノリノリの伴奏ともあいまって、それはもう、2頭の天馬が雲の上を自在にかけ回りたわむれ合うかのよう。音楽のスポーティフな魅力がこんなに純粋な形で味わえる演奏には、滅多にお耳にかかれるものではありません。それでいて、やはり音楽は極上の気品をたたえたヘンデルのソナタであることをやめず、二人の演奏はけっして中味のない軽薄に流れてはいません。
もし音楽に「リピート」というものがなかったら・・・私たちは、この痛快で胸のすくような音楽を、持っていなかったかも知れないのです。
■身近な音楽とリピートとの親縁■
「リピート」は、このように、音楽にすてきな遊びの魅力をもたらしてくれるものでした。音楽が深刻な告白をせつせつと語る大層なものにはまだなっていなかった17〜18世紀のころ、音楽作品は、こんなふうに、遊びの精神に満ちた余裕のある態度で演奏されていたし、作曲家たちも、自分たちの書く音楽がそのように扱われることをよく心得ていました。そして聴くほうの姿勢もまた、「一音も聴き逃すまい」というような、今の演奏会場の聴衆たちのような緊張したものではなく、もう少しゆったりと構えて余裕のある気持ちで楽しんでいたに違いありません。だから、演奏する人にとってみれば、実はショルティー先生がおっしゃる通り、「あ、今のはちょっと失敗。もう一回やるよ、今度こそ!」ということもあったでしょうし、聴く側にとっても、「惜しかったな、今度は頑張れよー」と思ったり、「ほう、今のはなかなかステキなフレーズだったなぁ! よく聴いてなかったら、二度目はよく聴いてみようかな」というようなこともあったにちがいありません。
音楽演奏というものが、日常生活の場面やその直接の延長上にある機会に、身近な場所で、しかも親しい人どうしの間でいとなまれる楽しみであった時代、「リピートのある音楽演奏の形」は、人々の音楽の楽しみかたに、まことにふさわしいものだったと言えるでしょう。
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