音楽についてのよもやま話
音楽雑記帳


音楽と調性




  調性のない音楽というのがあり、現代の「クラシック系」作曲シーンにおいては、むしろこれが普通であるのは、ご承知のかたが多いであろう。「現代音楽」という奇妙な言葉で呼ばれている音楽の大部分がこの技法で書かれている。というより、無調で、かつ、しばしば律動感までが失われたような、普通の人にはちょっとその表現意図が感じとりにくい音楽を指すのに「現代音楽」という言葉が使われているかの感さえある。

 こういう手法の正当性如何やこうした手法に基づく音楽の価値を論じようというのではない。一言だけを言えば、私の場合は、「観賞する価値の高い音楽」だと考えるための基準を非常に高いところに持っている(あるいは非常に独特な偏った好みを持っている)ので、「私の基準で言うと、『現代音楽』の中には、観賞する価値が高いと感じられる音楽が非常に稀である」とは言える。何しろ名曲中の名曲だと言われている、楽聖ベートーヴェンの傑作「熱情ソナタ」や「ワルトシュタインソナタ」、「ラズモフスキー四重奏」などのことを、ほとんどけちょんけちょんに言うぐらいなのだから、それも無理もない、と思っておいていただければと思う。

 大急ぎで申し上げておくと、私自身も作曲をすることがある(私は調性で書く)人間だが、自分の作品の価値は自分ではわからない。たぶんほとんど価値のないカスみたいな・・・新井雅之さんの冗談半分の言葉で言えば「ウンコみたいな」・・・ものなのだろうと思う。ただ、これまた他人の言葉で申し訳ないが、敬愛する近藤浩平さんの言葉を借りて言えば「私は私の歌を歌う」しかないし、また、私などの作曲作品でも、ある程度は楽しいと感じたりすてきだと思ってくださるかたもいらっしゃるので、書かないほうがマシというほどでもない場合も、ときにはあったのだろう、という程度に思っている。

 それはさて置き、この「調性が感じられないようようにする技法」の位置を明らかにするために、逆に「調性」というものがどのへんにそのルーツを持っているのかについて、私が思うところを書いてみたい。





 そもそも調性というのは、自然倍音の系列にその発生根拠を持つ、音楽にとっては、本来、その根本的なところに深く結びついた性質である。すなわち、原始の時代に、自然の無限にある音のなかから選び出された「音階」という抽象物が人間によって認識されるようになったのは、ある高さの音と振動数が整数比である音が同時に聞き取られたからに他ならない。ある高さの音が与えられたとき、その音を基準として「元の音と関係があると感じられる音」を網羅して順にならべたものが音階だ、と言ってもよいのである。

 これが、音で何ごとかを表現しようとした、あるいは、音を組織することで何かたのしいものを作ろうとした人間たちが発見した、基本的な表現手段であった。言葉を話しているだけではふつうは音楽とは感じられないが、百人一首を読み上げるときのように、言葉に、音階に組織された音を用いた「ふし」をつけて言えば「歌」に、すなわち音楽に近づいてくる。音楽でないものと音楽であるものとを区別する重要な指標の一つが、「音階にしたがっているかどうか」にあると言ってもよい(あるいは「よかった」)のは、明白であろう。
注 
 だから、実を言えば、「無調」の音楽においても、そのかなりの部分が、使用する音の組織だけは「ちゃっかりと」昔ながらの音階を下敷きにしたものを用いている。つまり言い換えれば、ピアノで弾いたり(もっとも1人で弾けるとは限らないが)、5線譜に書いたりできるものとして作られている。

 これは、調性に背を向ける以上は、けっして「当然のこと」ではない。調性に完全に背を向けておきながら音階は普通のを使っている(五線譜に書ける作品をつくっている)だなんていうのは、ある意味では中途半端な立場だと言える。

 たとえばドとシの間の音程は言うまでもなく「半音」と呼ばれる隔たりで、これが音楽で普通に用いられる「隣どうしの音」である。だが、物理学的に言えば、ドとシの間には実は無数の高さの音が存在するのであって、ドの隣の音としてシまで飛んでいくなんていうのは、この世に存在する音のうち非常に特殊な音だけを選び出して使っているのである。それにもかかわらず、ドよりも7分の2音だけ低い音だとか、シよりも57分の11音だけ高い音、なんてものをわざわざ指定する作曲家はそう多くない。それぐらい、音階というものが、音楽においては重要な素材的要素なのだ。

 もっとも、そういうことをやる作曲家のかたも、もちろんいないわけではなく、それどころか、別に珍しいというほどでもないのも、現代音楽にある程度触れてきたかたならばよくご承知の通り。たとえば半音のさらに半分の音程を用いる音楽や、調律を微妙に狂わせたピアノ[プリペアドピアノなどという]をわざわざ用いて弾くように指定されている作品もたくさんある。だが、そうではない、「普通のピアノで弾けて、五線譜に書ける無調作品」も、それに劣らずたくさんあるのだ。

 さて、そこで、こうして音楽の基本的要素として成立した音階というものには、その生来的な性質として、基準になる音というものがある。これがすなわち主音であって、西洋のバロック時代以後の音楽の場合は、ドレミファソラシドの「ドの音」が「主音」と呼ばれる。この音が中心、あるいは基準となって、他の音の高さが把握されるのである。

 世界には多数の民族があり、それぞれ個性的な音楽文化を持っているが、その大多数には、やはり、西洋音楽と本質的に同様なものと言ってもよいような音階が存在し、調性と呼んでよいものを持っている。日本の伝統音楽(たとえば雅楽)の音階や調性感はかなり独特な方だが、それでも、あれを無調音楽だと考えるのは誤りであろう。

 もちろん、音を用いていろいろな表現を行おうとすると、調性感を離れたところ、あるいは調性感とは違うよりどころによりかかって音楽を構成することも出てくる。たとえば単旋律で歌われた「グレゴリオ聖歌」なる西洋中世の宗教曲では、声によって描かれる一筆書きの音が言葉をともなって描いていく「線の美しさと音色の美しさ」の魅力に極端によりかかった音楽になっていて、ここでは、調性感はあまり重要な役割をしていないようだ。これらは、のちに「教会旋法」と呼ばれた、各種の独特な音階組織が用いられてるせいもあって、普通の調性音楽とはかなり違う世界の音楽になっている。

 なぜこういう手法の音楽が作られたのかについて言えば、言葉とピッタリと合う音の動き方を重視したことや、声という人間にとって最も美しい音色の魅惑に大きく依存したこと、さらには、おそらく教会の中に清潔かつ神秘的な雰囲気をかもし出す響きを与えることを重視した、など、いろいろな理由が考えられよう。そのうちどれが重要な理由だったのか、あるいはもっと別な事情だったのか、私には確かなことはわからない。

 だが、単旋律だけで作られた「グレゴリオ聖歌」は、やがて物足りないものと感じられるときが来たのであろう。そこで、中世の後半になると、二つ以上の旋律を同時に鳴らして、響きも調子もよくなるような音楽の作りかたが研究されるようになった。これが「対位法」と呼ばれるものだが、この技法の発達は、音楽における調性を重要なものとして確立するのに大きく影響したことだろう。なぜなら、単旋律の場合とちがって、複数の音が同時に鳴ることになると、そこには常に「和音」が鳴ることになる。和音というのは、原理的には音階よりも以前に存在し、むしろ音階を組織するさいの根拠になったものであって(このへんはちょっと面倒な話だが)、調性感にとって根本的な要素なのだ。調性音楽のことを「ハーモニーの音楽」と言うぐらいのものである。
注:
 音楽の理論についてある程度詳しくご存知のかた以外にとっては、あるいはわかりにくい話になっているかも知れないが、つまりこういうことだ。

 いま、ある音、たとえば524Hzの振動数を持つ音があるとする。この音を「ド」の音と呼ぶことにして、この音と同時に鳴らしたときに、濁らずによく溶け合う音というと、その筆頭は、周波数が1.5倍の、786Hzぐらいの音である。これを「ソ」の音と呼ぶことにする。その「ソ」の音ともっともよく溶け合う音は、そのまた1.5倍の、1180Hzぐらいの音なので、これを「レ」の音と呼ぶことにする。これの半分の周波数の、590Hzぐらいの音も「レ」だということにしよう。さらにレの音ともっともよく溶け合うのは・・・という具合に音を探していくことによって、524Hzの音を中心とする音階が作れる、というような話である。

 つまりは、ある音を規準として、その音とよく溶け合う音たちを次々にたぐって行くことで音階が作れるのである。大雑把な話、音階とは、「自然界に無数にある音たちの中から、組み合わせると和音が作れる可能性のある、相性のいい高さの音だけを選び出してきて、高さの順にならべたもの」だと言ってよい。
 
 音階というものが、このような原理で成立したものである以上、音階を使う音楽とは本来ハーモニーと不可分のもの、あるいはそう言って言い過ぎならば、少なくとも、ハーモニーの音楽(調性音楽)が音楽の自然な本来の姿であるのは争われないのである。


 さて、ハーモニーの世界では、音楽は主音(ドの音)、ないし主和音(ドミソの和音)を中心として、この音からの「揺れ動きの旅」として描かれる。音楽で何かを語っていこうとするときに、和音の進み具合による表現が、非常に表現力の大きな手段として発達し、駆使されていったのである。むろん、画家の表現手段に、色使いだけではなくて、テクスチャの魅力も構図の魅力も、それどころか題材そのものの魅力も含まれているように、音楽にも、和音進行の他にもいろいろな表現手段がある。魅惑的な音色もその一つだし、ここちよいリズム感もその一つである。メロディーそのものの表現力ということもある。だが、それらの手段の助けを借りながら、それらを打って一丸とする音楽表現の要というか柱というか、中心線を担ったのが、和声進行だったのだ。

 この観点から言えば、無調の音楽とは、つまるところ、「音程と和声における中心点の存在を消滅させた音楽」に他ならない。今鳴っている響きや今鳴っているある音程の音が、次にどんな響き・どんな音程の音に行こうとしているのかを、聴き手や弾き手が予測することを許さない、というところにその本質がある音楽なのである。ここに、無調音楽の「わかりにくさ」の源があると言ってよかろう。また、その本質上、音の響きそのものにおいても、よく溶け合う和音をあまり使わない(これを頻繁に使うと調性音楽になってしまう)ので、響きは常に濁っているというか、常に緊張していて、解放ないし解決されるということがない、ということになりがちである。

 もちろん、だからと言って、無調という手法に音楽における可能性がないわけではない。それどころか、天才的な作曲家たちは、すでに、調性音楽の全盛時代に、調性感を失わせる、あるいは少なくとも極めてあいまいにするという技法を効果的に用いていた。バッハの「平均律」第一巻のロ短調フーガのテーマや、モーツァルトの「不協和音」四重奏の第一楽章序奏、晩年の「ト短調交響曲」の第四楽章展開部冒頭、そしてベートーヴェンの弦楽四重奏「大フーガ」の冒頭などは、その手近な例となろう。ワグナーの「トリスタン」をもって無調音楽への道が開かれたなどという見方は、バッハ・モーツァルト・ベートーヴェンはワグナーよりも「古い」から「未発達」な音楽だったと見る、19世紀的な「進歩の思想」の産物にすぎないと私は考えている。

 たしかに、自作のある箇所で例外的に無調的手法を取り入れたにすぎないモーツァルトやベートーヴェンと、調性音楽における和声の可能性を極め尽くした果てに無調的な和声への「一線」を越えた(んですってね)というワグナーとをいっしょにしてはいけないのかも知れない。だが、私に言わせれば、無調音楽というものの「存在可能性」は、バッハはともかくとしても、モーツァルトはすでに完全な形で示しているのであって、ワグナーが苦労の果てようやくたどり着いた「無調」の世界に、天才モーツァルトやベートーヴェンは、あっさり「そりゃ、時にはこんなのもアリさ」とばかり、いとも簡単に到着していたに過ぎないのではないか。

 ともあれ、バッハにおいてもモーツァルトにおいてもベートーヴェンにおいても、調性感を失わせる瞬間はある。その意味で、無調音楽なんてものは、大騒ぎするほど特別なものでも何でもないのである。無調の作品であっても、奏者や聴き手を楽しませ、心の栄養となる働きをしてくれるのならば、大歓迎である。だが、無調というのは、すでに明らかなように、音楽というものの成立原理からすれば、かなり特殊な、いわば音楽を音楽たらしめる根本のところに逆らう性質が強い技法なのであって、これを「例外的に」用いるのでなく「支配的原理として」用いて、なおかつ人間にとって美しい音楽であり続けようとするのは、非常に困難な茨の道であることは容易に予想されよう。

 「現代音楽」の作曲家さんたち、なんでそんなに無理して無調で書くの? と、私は思わずにいられないのである。
リコーダーJP ディレクター 石田誠司



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