■拍子についての通説■
黒丸に短い線を書き添えたものを「四分音符」といいますね。そして、「4分の3拍子」の曲では、ひとつの「小節」の中に、四分音符が3つぶんの長さが収められていることになっています。「ズンチャッチャ」という伴奏で演奏される、「ワルツ」の音楽は、代表的な3拍子の音楽です。
3拍子の音楽では、「ズンチャッチャ」の「ズン」のところ、いわゆる「1拍目」の音を、あとの「チャッチャ」よりも、こころもち強く演奏することで、調子がよくなる、ということになっています。同様に、4分の4拍子の曲では、ひとつの「小節」のなかに四分音符4つぶんの長さが収められていて、それぞれの拍は「強・弱・中・弱」という強さを与えるのが基本だということになっています。きっと小学校の音楽の授業で習ったと思うのですが、覚えていらっしゃるでしょうか。
■フレーズ■
しかし、これは言わば「たてまえ」みたいなもので、実際の音楽演奏においては、あまり極端に考えたり、とらわれすぎたりしないほうがよいでしょう。ことに、私たちが演奏しているような「本格的な音楽」で、しかも、独奏管楽器の演奏となると、こういう「基本中の基本」は、あまり重要な役割をしていません。むしろ大切なのは、「フレーズ」を感じ取る力です。
「フレーズ」ということばを、正確に定義するなんてことは私にはできませんが、ここではとりあえず、「いくつかの音符の連なりを、ひとつの意味あるまとまりとしたもの」で、「歌のひとくさりのこと」というぐらいの意味で考えています。いわば、音楽的な意味における、「意味のまとまり」です。ひとつの曲を、長い文章だとすると、フレーズの切れ目は読点のようなものです。そして、さらに「楽節」などとよばれる、少し大きなまとまりの切れ目が、句点にあたると言えるでしょう。
■「荒城の月」におけるフレーズ■
たとえば、そうですね、「荒城の月」をごぞんじでしょう。「春高楼の花の宴 巡る杯影差して 千代の松が枝分け出し 昔の光今いずこ」といった歌詞でした。この歌のメロディーを演奏することを考えてみます。
さて、どういう「まとまり」をお感じになるでしょうか。人によっては、「春高」「楼の」「花のえ」「んー」のように、ほとんど1小節ごとの切れ目を感じるかも知れません。そう感じたなら、そのように演奏してみればよいのです。とは言え、最後の「花の宴」は、「ひとまとまり」と感じるのではないでしょうか。つまり、「花のえ」でひとつのフレーズと感じる人は、きっとほとんどいらっしゃらないはずです。つまり、「花の宴」という二つの小節の間は、音楽として切れ目がない、と感じるでしょう。
それが「フレーズを感じる」ということに他なりません。
ちなみに、私ですと、上の引用で一文字あけを行ったところがフレーズの切れ目であると感じます。つまり、「春高楼の花の宴」は、途中で切るべきでない、一つのフレーズと考えます。とくに、「歌う楽器」であるリコーダーでは、少し長い目にフレーズを感じるようにするほうが、魅力的な演奏ができる場合が多いように思っています。
■器楽曲におけるフレーズの考え方■
わりと古風に作られた曲では、一つのフレーズは、4小節ぐらいにまたがっていることが多いのです。ゆっくりした曲ならば、2小節で一つのフレーズがつくられていることもあります。そして、8小節とか16小節ぐらいで、一つの「楽節」がつくられます。
4とか8とか16といった「4の倍数」がよく出てくるのは、ひとつの「フレーズ」が、4小節ぐらいで作られていることが多く、さらに、2つとか4つのフレーズが合わさって、一つの「楽節」が作られていることが、比較的多いからです。
しかし、これもまた「基本」のお話で、音楽というのは、そう一筋縄で行くものではありません。あるフレーズが、ある小節の途中から始まり、5つ先の小節の最初の音で終わるとか、あるフレーズは3小節だったとか・・・そんなことはしょっちゅうです。演奏しているときに、「これが一つのまとまりだなぁ」と思う、それが、「あなたの感じ取ったフレーズ」なのです。演奏するときには、それを一つのまとまりとして、全体として適切な表情を与えてやることを考えていくわけですよね。さらに、次のフレーズはどう演奏するか、そして、曲全体は、どのようなストーリーを語るものになるか・・・。
■自分で感じること、あらゆる人から学ぶこと■
いや、しかし、あまり考えすぎるのはよくありませんね。「感じること」が大切だと思います。どう吹くのが「気持ちがいい」か、どう吹くのが「美しい」か、どう吹くのが「面白い」かという、自分自身の感じかたを大切にしようではありませんか。
また、機会があったら、他の人が演奏しているのにも、よく耳を傾けてみましょう。じょうずな人の演奏からは得られるものが多いでしょう。逆に自分よりも上手でない人の場合には「ちょっとたどたどしいな」とか、「あっ、なんでそんなに乱暴な音で」とか、「その音は、違うじゃないの」などと、いろいろ欠点を感じることもあるでしょうが、しかし、そうであっても、何か、その人なりの「感じたもの」が表現されているところが、きっとあるはずです。同じ曲を演奏しても、人それぞれ、感じかたはちがっていて、鳴り響く音楽には、うまいか下手かという問題とは別に、「少しずつ違う個性」が出ているものなのです。そこには、何か学ぶべき「よいもの」も含まれている可能性が高いと思います。
音楽においては、自分より上手な人の演奏にも「おかしい、自分ならああはやりたくない」と思うところはきっとあるはずだし、逆に自分より上手でない人の演奏からでも、学ぶべきことは見つかるものです。これは、私が尊敬する、ある音楽家のおっしゃっていたことで、私は本当にそうに違いない、と思うのです。
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