初級者のための、楽しくためになるコラム
VIVA! リコーダー その12

ビブラートの問題(1)







 以前、このシリーズの中の「美しい音色ってどんな音色?」というコラムで、ビブラートについて「嫌う考え方もあるが、遠慮することはない」という考えを述べました。この点について、もう一度掘り下げてみたいと思います。


■弦楽器を例に

 ルネサンス時代・バロック時代の音楽の演奏様式についての研究が進むにつれて、「かつては現在のようにビブラートを濫用しなかった」と考えられるようになっています。

 これは、その通りなのだろうと思います。たとえば、当時たいへん活躍した弦楽器であったビオラ・ダ・ガンバには、ギターと同じような「フレット」がありました。フレットがあると、音程は少し取りやすくなりますが、ビブラートはかけにくくなります。この楽器がやがて19世紀にさしかかるころほろびたのは、しだいにビブラートが音楽表現で重視されるようになったこととも、無関係ではないでしょう。

 そう言えば、19世紀はじめの作曲家・シューベルトに「アルペジオーネソナタ」という名曲があります。このアルペジオーネという楽器は、チェロと似た大きさの、弓で弾く弦楽器だったのですが、フレットがつけられていて高い音の演奏がチェロよりも容易に行えるのがひとつの特徴でした。このため、シューベルトのアルペジオーネソナタは、チェロで演奏すると高音を正確に弾くのが難しくて、たいへんな難曲となっています。ふつうアマチュアには満足に弾けません。

 しかし、この名曲があるにもかかわらず、アルペジオーネという楽器は、ほとんど流行ることなくほろびました。おそらく、シューベルトが生きていた19世紀初頭においては、すでにビブラートは非常に重視されるようになっていたため、チェロに比べてビブラートが困難なアルペジオーネは、その点で独奏楽器として中途半端だと考えられたのが、流行らなかった理由の一つだったのではないか。

 しかし逆に言えば、バロック時代(17世紀後半〜18世紀前半ごろ)においては、フレットのない弦楽器も存在したにもかかわらず、ビオラ=ダ=ガンバもよく用いられていたという事情は、バロック時代にはビブラートが重視されていなかったことを裏付けているといえるでしょう。


■ルネサンス作品とバロック作品

 ただ、私は、「バロック作品はビブラートを嫌う」と単純に割り切ることはできないのです。事情はそれほど単純ではないのではないか。私は専門家ではありませんので、私の意見には何の権威もありませんが、自分が聴いてきた経験、演奏してきた経験から、こう思うという考えを述べてみます。

 まず、16〜17世紀前半ごろの「ルネサンス時代」の作品について言えば、これは私にも「ビブラートは行わない演奏」がピンと来ます。特定のフレーズの感情的表現に依存しない、ある意味ではたいへん淡々とした、澄んだ響きの音楽。これらは、ビブラートをかけないすっきりとした音で、清澄な響きがつくられるときに、その最大の魅力が発揮されると感じます。

 しかし、バロック作品となると、すでに事情はかなり微妙なものがあると私は思うのです。たしかに、のちのロマン派時代の作品のような、激しい感情表現は、まだ支配的ではありません。しかし、バロック作品においては、ルネサンス時代の作品が持つ淡々とした趣きからはすでに脱して、ずいぶん人間臭い要素やドラマティックな要素も、音楽に入ってきています。中世の宗教的な世界観をまだまだ色濃く残していたルネサンス時代とちがう、近代社会の息吹き、人間中心の世界観が、音楽にかなり投影されるようになってきているのです。そこにおいては、音楽が神様に奉仕するものと感じられて「敬虔な、自己主張をしない態度」が濃厚だったルネサンス作品の音楽性とは異なる、自我の主張、積極的な態度、強い主体的な意思の表現が、音楽の中に入り込んできつつあるのです。

 「この一つの音」にこめられた思いの深さ、一つの音に託された感情の強さ。それを十全に表現しようとするなら、その音には、他の箇所の音とは違う、表現的要素を持ち込みたい。そう思ったとき、奏者はその一つの手段として、ビブラートによる音色的な強調を採用したくなるのは、自然な成り行きです。この意味で、私には、「バロック作品の演奏にビブラートを行わない」と決めてかかるのは、無用なかたくなさであるように思われてならないのです。


■演奏様式の変化のダイナミズム

 また、演奏様式の変遷というのを、あまり図式的に割り切りすぎるのも危険な・・・というとおおげさですが、単純にすぎる考え方のように私は思います。言ってみれば、おそらくルネサンス時代にも、すでにビブラートを多用する演奏者も、少数にせよ、いたのではないか。バロック時代になると、そういう人たちはかなり増えてきていて、やがて古典派時代・ロマン派時代となるにつれて、そういう人がむしろ多数派になっていったのではなかったのか、と私は思うのです。

 何よりも、作品を演奏してみて私はそう思うのです。バードの作品ならば、長い二分音符や全音符でも、ビブラートをかけずにまっすぐな音で演奏していて気持ちがよい。しかし、ヘンデルのソナタになると、私は音符がビブラートを要求していると感じることが多いのです。ルイエしかり、バッハしかり、テレマンしかり。かれらの作品には、すでにロマン派を先取りしたような、表現的な瞬間があります。

 かれらの作品のこのような表現的な瞬間が、奏者たちにビブラートを必要だと感じさせ、ビブラートがしだいに取り入れられるようになる。そして、ビブラートを行う演奏を聴いた作曲家たちは、なるほどこれは美しいなと思って、自分の作品に「表現的な語彙」を多く取り入れるようになる・・・。こうした相互作用が、やがて「ビブラート全盛」のロマン的な演奏様式への変化につながっていく。

 きっと、こういうダイナミズムが働いていたにちがいないと私は考えます。つまり、「バロック時代の演奏様式」というものを、一つの固定的な像として描く考え方は、必ずしも的を射ていないのではないかと思うのです。バロック時代にだって、ビブラートを多用した奏者はたくさんいたのではないか。そして、そういう奏者たちこそが、音楽の発展に寄与していったという面があったのではないか。


■現代の私たちの音楽的感受性

 さらに、私は自分たちが生きている時代、自分たちが呼吸している音楽的環境の問題があると思います。現代の私たちは、感情表現の濃厚なロマン派の音楽も知っているし、正確なビートに乗せて多彩な音色を駆使する現代のポップス音楽も知っていいます。良くも悪くも、私たちの音楽的感受性は、そのような環境で作られたものです。

 そして、バロック作品を演奏するときにも、自分の音楽的感受性に忠実に演奏する以外に、真性な表現を行う方法はないのです。「バロック時代にはのちの時代ほどビブラートは濫用されなかった」という知識が無用のものとは思いませんが、しかし、自分が「この音にはビブラートをかけたい」と感じるのに、それを「いや、バロック時代においてはビブラートは使わなかったらしいのだから」という「知識」を優先させてそれを我慢する、という態度が、少なくともそれだけが真性な音楽表現に通じる道であるとは、私には思えないのです。

 もちろん、ビブラートをかけたくないと「感じる」のなら、やめておけばいいでしょう。しかし、「かけたい」と感じるのなら、かけてみる。それが音楽演奏における真摯な姿勢だと私は信じています。


※ 今回の稿を(1)として、さらに、ビブラートの方法の問題などについて、別稿を立てたいと思います。


リコーダーJPディレクター 石田誠司  

  

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